これまでの作品

浅草金竜山(令和7年年賀状)

 今回の作品は、歌川広重(寛政9(1797)年~安政5(1858)年)が最晩年の安政3~5年にかけて描いた「名所江戸百景」から、「浅草金竜山」を原画としました。この絵は、百景の中で「冬の景」として区分されていますが、旧暦で冬は10月から12月(現代の暦では10月下旬頃から2月上旬位)です。総じて寒かったとされる江戸時代(ミニ氷河期という説もあるそうです)、浅草寺に雪が積もることもあったのでしょう。ただし、元旦からは旧暦で春になりますので、年賀状にこの絵を原画とすることには、いささか迷いもありました。しかし、広重(と言うか当時の版元)がこの絵を安政3年の夏に刊行していますので、「まあ良いっか」という気持ちで制作を開始しました。

 この原画をご存じの方も多いと思いますが、浅草寺の雷門(正式名称は、風雷神門)から正面に仁王門(宝蔵門とも)、右手に五重塔を望んだものです。五重塔は仁王門などと共に第二次大戦で焼失しましたが、昭和39年に、向かって左側に再建されています。

 雷門は慶應元(1865)年の火災で焼失し、その後95年間再建されていませんでしたが、昭和35(1960)年に松下幸之助氏の寄進で再建されたものです。雷門に吊り下がっている大提灯には現在は「雷門」と書かれていますが、江戸時代には新橋の信徒から寄進されたため「志ん橋」と書かれていました。絵の提灯の「橋」の字の上は、「ん」の字の一部です。ちなみに現在でも本堂に吊り下げてある大提灯には「志ん橋」と書かれています。

  作品の制作にあたっては、原画では雷門や仁王門、五重塔は朱赤で、参詣する人達も茶色や紺色などで描かれていますが、今回は提灯の赤だけを残し、そのほかは墨の濃淡で表現してみました。墨の濃淡は全部で5通りのため、版木も赤を入れて6枚使っています。

くつろぐ中間(ちゅうげん)(2024/9)

今回の作品は、葛飾北斎の鳥羽画集(とばえしゅう)から「くつろぐ中間(ちゅうげん)」を原画としました。

鳥羽画とは、日常生活などに取材し簡略な筆致で軽妙に描いた戯画のことで、江戸時代中期に上方で流行して江戸をはじめ各地に広がったものです。この作品は文化年間中期(1808~13年)頃の作品とみられます。

 中間(ちゅうげん)とは、武家に召し使われる男の奉公人です。武士として最下級の足軽と、飯炊きなどの下男との間という位置づけから中間と呼ばれましたが、武士ではないので苗字帯刀は許されません。作品では刀の様なものを1本差していますが、本物の刀ではなく、木刀です。画面では荷物(座っている縁台の横に担ぐ棒と箱があります)を運んできた中間が、あくびをしながら一休みしている姿を描いています。鳥羽画らしい面白さが良く表れています。また図中の看板(一部隠れていますが)には「今日 鳥羽画集会 北斎同人 晴雨不構」と書かれていますが、自身が主催する会に余り客が入らないという、北斎流のユーモア表現と見られるそうです。

作品の制作にあたっては、彩色すべきか否か迷いました。原画はベルギー王立美術歴史博物館所有のもので、掲載されている図録からは墨一色のようにも見えるのですが、画全体がうっすら肌色にも見えます。そこで肌色だけ薄く色を付け、他は墨の濃淡で表現してみました。

夕立 (2024/7)

 鈴木春信という浮世絵師をご存じでしょうか。今回の作品は江戸中期の浮世絵師、鈴木春信(享保10(1725)年?~明和7(1770)年)の作品を原画としました。晴信は、幕末に活躍した葛飾北斎や歌川広重より100年近く前の絵師で、多色刷りの木版画「錦絵」の創製に大きな貢献をしたことで知られます。絵師としては遅咲きのデビューで、活躍の期間は10年ほどですが、錦絵や絵本、版本挿絵など千点余りの作品が残されています。

 明和初期から江戸の文人などの間で流行した「大小会」(月の大小を記載した私製の絵暦を交換する会)から錦絵が誕生したのですが、原画の「夕立」は明和2(1765)年の作品で、物干し竿の浴衣の模様に、大の月を示す「大二三五六八十」と、年号の「メイワ二」(明和二)の文字が描かれています(私の作品では分かりませんが)。

 「夕立」は、急な俄雨に慌てて洗濯物を取り込もうとしている娘の姿を描いています。下駄は脱げ、強風で着物が乱れている姿に”動き”が感じられます。数ある春信の作品の中でも私の最も好きな作品の一つです。

 作品の制作は中々難しく、横殴りの雨や風を表す線、風に乱れる着物の輪郭、着物や帯の柄や色、どんよりとした空の色など、何度も彫り直し、摺り直しをすることになりました。その結果、6月末完成の予定がひと月近く遅れてしまいました。結局、着物の柄は小さすぎて彫り切れず、また帯の柄は原画とは異なったもので妥協せざるをえませんでした。もっともっと技術を磨いて上手くなりたいと思います

吾妻橋 金龍山遠望(2024/3)

今回の作品は、江戸後期の浮世絵師、歌川広重(寛政9(1797)年~安政5(1858)年)の最晩年の作品、「名所江戸百景」の内から吾妻橋 金龍山遠望(あずまばし きんりゅうざん えんぼう)を原画としました。名所江戸百景は広重の最晩年に制作されたもので、100ヶ所ではなく119ヶ所の江戸名所が描かれています。すべて縦構図で、前景手前のモチーフを極端に大きく描き、遠景には富士山や筑波山を小さく入れるという大胆な遠近法を多用し、フランスのゴッホなどに大きな影響を与えました。

原画は舟遊びをテーマに、金持の商人がおもに利用した屋根船(数人乗りの船)に、芸者と思われる女性をお供に隅田川堤の桜を楽しんでいる様子が描かれています。

富士山の手前には吾妻橋、その右手に金龍山浅草寺の五重塔と本堂が描かれています。また小さくて分かりにくいですが、橋の上には大名行列の槍が見えています(女性の簪の右側)。

作品の制作にあたっては、これまでのように原画を部分的にフィーチャーするのではなく、絵全体を描くことにしました。原画は大判錦絵ですが、これを葉書サイズに縮小したので、風に舞い散る桜の花びらが小さすぎて上手く彫れませんでした。またこれ以外にも小さなミスがあるので、拡大してアラ探しなどされないようお願いします(笑)。

龍の図 令和6年年賀状(2024/1)

令和六年の年賀状です。今回も昨秋の作品と同じ、歌川国芳(画号:一勇斎、寛政9(1789)年~文久1(1861)年)の作品を原画としました。今年の干支、龍を描いた浮世絵は北斎なども制作していますが、この国芳の龍は顔の面白さや、目と口、稲妻(?)の赤色が気に入って原画としました。

天保10(1839)~13(1842)年の間に制作されたもので、掛物絵(かけものえ)といって大判錦絵(縦39cm横26.5cm)を縦に2枚継ぎ合わせて1図となるように作られたものだそうです。簡単な表装をして飾る事ができ、軸物の安価な代用品として用いられました。従って原画の下の方には龍の下部が描かれていますが、今回の作品では頭の部分を中心として制作しました。

作品は墨の濃淡(薄墨、濃い薄墨、墨)で3版、赤1版の合計4版で制作しています。画面では赤の発色があまり良くありません。もう少し濃い赤色なのですが、スキャナーの色調整が上手くできず、薄くなってしまいました。

私事ですが、今年で6回目の年男です。7回目に向けてさらに版画の技量を上げてゆきたいと思っています。

みかけハこハゐがとんだいい人だ  (2023/9)

今回の作品は、江戸末期の奇才、歌川国芳(うたがわくによし 画号:一勇斎、寛政9(1798)年~文久1(1861)年)の作品を原画としました。国芳は歌川広重と同い年で、門人には幕末から明治初期に活躍した河鍋暁斎や月岡芳年などがいます。”武者絵の国芳”としての評価が高いほか、名所絵、美人画、戯画などでも有名です。また猫や金魚、妖怪を題材とした浮世絵も多く、私の2021年7月の作品も国芳の”きんぎょづくし ぼんぼん”を原画としています(一番下をご覧ください)。

国芳の活躍した時代は老中・水野忠邦による”天保の改革”のさなかであり、悪政を風刺する作品も多くあります。幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークし、何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、罰金を取られたり、始末書を書かされたりしたそうです。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺して江戸の人々の喝さいを浴びていたとの事です。

原画の「みかけハこハゐがとんだいい人だ(見かけは怖いが とんだ良い人だ)」は、”寄せ絵”と呼ばれるものです。男性が手を突き出し口を開けているように見えますが、よく見ると大ぜいのひとが集まっています。原画の左上には「大ぜいの人がよってたかって とふとふいゝ人をこしらへた とかく人のことは人にしてもらわねばいゝ人にはならぬ」と描かれています。

全部で15人描かれているそうですが、背中の大きな人物は鎌倉時代初期の武将・朝比奈三郎とされ、朝比奈が異国廻りで会った人たちが頭部と手を作っている趣向だそうです。髪の毛の部分には”黒人国”の人が二人いますが分かりますでしょうか。

作品は5色5版で制作しました。曲線が多いので版ズレに気を遣いましたが、表題の部分で、背景の青色(表題部分を白抜き)、下地の赤色、題字と外枠の墨色と、3回版を重ねるため、どうしてもズレが出来てしまいました。まだまだ摺りの技術が不足していますね。

魚づくし 鮎(部分) (2023/6)

今回の作品は、歌川広重(寛政9(1797)年~安政5(1858)年)の作品、「魚(うを)づくし 鮎」を原画としました。この作品は、天保中期(1834~39)のもので、横大判錦絵(22.8㎝✕34.3㎝)という種類です。原画には5匹の鮎が描かれており、左上に賛の句が書かれてます。当時、玉川(多摩川)は鮎の名産地として知られており、清流に泳ぐ鮎の群れを描いています。広重の「魚づくし」には「鯉」、「鰺、車蝦」、「さば、かに」などのシリーズもので、当時は大変人気があったそうです。歌川広重と言えば、東海道五十三次や名所江戸百景などの風景画が有名ですが、一方で花鳥画(魚も含みます)も数多く制作しています。

 制作にあたっては5匹全部を画面に収めようとすると、鮎が小さくなってしまうので3匹だけとし、また賛の代わりに「魚づく志鮎」とくずし字で入れてみました。なお今回ほど摺りに苦労した事はありませんでした。絵の具も木版画用の不透明絵の具の代わりに水彩画用の透明絵の具を使ってみましたが、清流の透明感、冷涼感、鮎の体の色、どれも思い通りに出来ていません。実力不足を思い知らされました。

難波屋おきた(部分) (2023/3)

今回の作品は、喜多川歌麿【宝暦3(1753)年~文化3(1806)年】の美人画「難波屋(なにわや)おきた」を原画としました。寛政5(1793)年頃の作品で、おきたは浅草寺随身門(ずいしんもん)脇の水茶屋、難波屋の看板娘で当時は16歳です。寛政の三美人の一人で、中でもおきたは一番人気があったそうです。錦絵で有名なおきたを見ようと、見物人が水茶屋の前に群がり、店先に水を撒いても立ち去らなかったとも言われています。原画は、おきたが客にお茶を出す姿で、小さな盆に湯飲み茶わんを手にしていますが、今回は顔の部分をアップにしました。

 歌麿はおきたを好んだとみえ、描いた作品は15種を超えています。その最初の絵が今回の絵だとされ、背景を白雲母で塗りつぶす白雲母摺(しろきらずり)で描かれています。これは版元の蔦屋重三郎のアイディアだと言われていますが、この白雲母摺りは当たり、普通の美人画よりも割高な価格で販売されていましたが、寛政の改革で華美な商品として禁止されました。

今回の作品制作は7色で版数が4枚でしたが、上手く彫れず全数彫り直しました。特に髪の部分では生え際が難しく、苦労しました。原画では生え際は「毛割(けわり)」といって、1mmの間に4~5本の線を彫るそうですが、素人の悲しさ、1mm間隔が精いっぱいでした。なお、今回からスキャナーを代えたため、色の再現精度が少し落ちてしまい、眼の周囲にごく薄くピンクを入れているのですが、画面では良く分からないのが残念です。また今回は「足信」の字体を、篆刻文字からくずし字に代えました。

愉楽 令和5年 年賀状(2023/1)

令和5年の年賀状です。今回の作品も北斎漫画を原画としました。北斎漫画全15編の内の第8編に掲載されているもので、文政元年(1818年)北斎が59歳の時に出版されたものです。

原画には題名がありませんが、”愉楽”と名付けてみました。三味線を持った男性は都々逸でも唄っているのでしょうか。これを聞いているおかみさんはお銚子を手に笑っています。また左の男性も大口を開けています。愉快で楽しい雰囲気が出ており、北斎漫画の中でも一番好きな絵です。印刷のものですが額に入れて自分の机の前に飾っています。コロナ禍がまだ続いていますが、今年こそは解放される年になって欲しいと思い、この絵を選びました。

今回の作品では、黒の濃淡と”迎春”の文字に赤を使っただけなので、2版で、1枚の版木(桜)の裏表を使いました。

また黒色はこれまで絵の具を使っていたのですが、今回は練り墨(墨汁と膠を混ぜたもの)を使いました。練り墨は扱いがちょっと面倒なので、これまであまり使っていなかったのですが、今回は黒々とした色を出したかったので使ってみました。

今年こそは愉快で楽しい一年が続きますよう、皆様のご健康とご多幸をお祈りいたしております。

十字願満之 摩利支尊天(2022/09)

今回の作品は、葛飾北斎の十字願満之摩利支尊「じゅうじがんまん(まんがん?)の まりしそんてん」を原画としました。この絵は、天保6年(1835年)北斎が76歳の時に下絵を制作し、90歳で没した翌年の嘉永3年(1850年)に刊行された「絵本和漢誉」(えほん わかんのほまれ)にあります。江戸、大坂、名古屋で同時期に発売されたもので、作者名には当時の北斎の画号である「前北斎 画狂老人卍」(ぜん ほくさい がきょうろうじんまんじ)と記されています。

摩利支(尊)天とは仏教における守護神で、陽炎(かげろう)が神格化して生まれたものだそうです。摩利支天は太陽を背にして戦うので姿が見えないため、戦いに強く決して負けない、傷付くことがないと信じられていました。従って前田利家をはじめ戦国大名や多くの武士から信仰を集めていました。

摩利支天の絵は多く残されていますが、その殆どは猪の背に立って弓矢を持つものです。北斎もそうした絵を北斎漫画に描いていますが、和漢(日本や中国)の武者や勇者の絵を描いたこの絵本では異なります。なお「十字願満」の意味を色々と調べてみましたが、残念ながら分かりませんでした。

原画は墨で描かれているのですが、この作品は赤の絵の具で摺りました。赤色は古来より疫病や災難除けに果があると信じられており、江戸時代では「疱瘡絵」(赤絵とも言う)と呼ばれた疱瘡(天然痘)除けの木版画がありました。疱瘡絵は鍾馗や金太郎など英雄や豪傑を描いて、疱瘡をもたらす神が退散するよう家の中に貼っていたそうです。新型コロナの第7波がまだ収まりませんが、皆様が罹患しないよう祈りを込めました。

朝顔に蛙(部分)(2022/7)

今回の作品は、葛飾北斎の作品で「朝顔に蛙」を原画としました。天保初期(1830~44年)の大判錦絵(横39cm✕縦26.5cm)で、北斎花鳥画集(全10作)の一つです。前回の作品「桜と鷹」と同様、原画には前北斎為一作と書かれています。

江戸時代の後期は、朝顔が何度かブームになりました。文化・文政年間(1804~30)に第一次ブームが、続く嘉永・安政年間(1848~60)に第二次ブームがあり、明治時代に第三次ブームが訪れました。葉や花が突然変異して、とても朝顔とは思えないもの(変化朝顔と呼びます)を品評会に出し、図譜や番付を出して熱狂していました。

この原画は天保初期ですから文化・文政の直後で、第一次朝顔ブームの熱気が冷まらない時期に、当時70歳半ばの北斎が描いたものです。色鮮やかな朝顔に加えて、斑点のあるものや、つぼみなど様々な形態が描かれています。中央の葉に乗った蛙(雨蛙と思われます)が花を見ています。

今回の制作では、原画全体を描くのではなく、雨蛙を中心にして切り取りました。また保存状態の良い原画が少ないため、原画本来の花の色、葉や斑の色などが明確に分からない中、自分が見て一番美しいと感じたものを原画としましたが、残念ながら色は上手く再現できていません。ただ、かなり細い線を彫る事が出来るようになったことは自信になりました。

桜に鷹(部分)  (2022/4)

今回の作品は、葛飾北斎の作品で「桜に鷹」の部分を原画としました。「桜に鷹」は天保5(1834)年北斎が74歳頃の作品で、正月に飾る吉祥画を描いた連作「長大判(ながおおばん)花鳥図」の1枚です。大きさは52cm×26.4cmという縦長の作品で、桜花を背景に架木(ほこぎ)に止まる鷹狩り用の鷹が描かれています。版木の一部が、横長の火鉢の側板に使われているものが2020年に発見され、ニュースになったこともありました。

当時70歳代半ばの北斎は、「富嶽三十六景」(神奈川沖浪裏:ビッグウェーブが有名)などのヒット作を手掛けていた時期で、原画の右下には「前北斎為一(ぜん ほくさい いいつ)筆」と書かれています。北斎は雅号(画号)を生涯に約30回も変えた事でも知られていますが、弟子に雅号を譲って収入にしていたという説もあるそうです。

原画には背景に空の青色が描かれていますが、今回の制作ではあえて青を使わず、鷹の体や羽、花弁や葉の表現に力をいれました。

また今回から「足信(あしのぶ)」という号を使うことにしました。足立の信行なので「あしのぶ」です。足立信用金庫ではありません。当分これを使うつもりでいます。

暫(しばらく) (2022/1)

今回の作品は、江戸後期の浮世絵師、初代歌川国政(安永2(1773)年頃~文化7(1810)年)の「市川蝦蔵(いちかわ えびぞう)の暫(しばらく)」を原画としました。年賀状なので、久しくお会いしていない方への”しばらく”の意味も含めています。

原画は大判錦絵(約37cm×24cm)で、市川蝦蔵、前名五代目市川団十郎が寛政8(1796)年11月に演じた舞台から描かれています。この芝居は、花道から「しばらく」と声をかけて登場することから、主人公も作品名も”暫”と通称されています。超人的な勇猛力で巨悪をくじく暫は、市川家の歌舞伎十八番の一つです。昨年の東京オリンピックの開会式で、当代の十一代市川海老蔵(”えび”の字が違います)が演じたので、覚えておられる方も多いのではないでしょうか。

この絵で特徴的なのは、市川家のシンボルカラーである柿色の素襖に定紋の三升を手前に大きく配し、その向こうに真横を向いた蝦蔵を描く大胆な構図です。

今回は8色ですが、版木は4枚ですみました。また、摺りの段階で鬢の墨色や素襖の袖の柿色を摺りムラなく出すことに苦労しました。原画には左上に国政画と描かれていますが、ここに賀正と篆書体(篆刻文字)で入れました。

コロナなんて飛んでいけ! (2021/9)

今回の原図は「北斎漫画」から選びました。コロナ禍で閉塞感のある日々をユーモアで吹き飛ばそうと思い、面白く、プッと吹き出しそうな絵を選びました。上の人物は鼻息で蝋燭の火を消そうとしていますが、蝋燭に「古呂名(コロナ)」と当て字で入れてみました。下の絵は箸を鼻の穴と下唇の間に挟んでいます。昨年の9月に「コロナ退散を祈って」と題した作品を制作しましたが、1年後もまだコロナの作品を作るとは思ってもいませんでした。

北斎漫画は全15編の半紙本(A5サイズ位)で、現代の漫画とは異なり、人物、風俗、動植物、建築物、風景、歴史、妖怪など、あらゆる図柄がアトランダムにまとめられています。総図数は3千数百もあり、門人のための指南書と言われています。北斎が55歳(文化11年、1814年)の時に初めて出版され、最後の15編は没後28年たった明治11(1878)年に出された大変人気のあった版本です。

今回の制作では、髪の部分に苦労しました。本来なら輪郭線だけなので、版木は1枚で良いのですが、下の人物の毛が何か所も途中で折れてしまい、”抜け毛”のようになった為この部分だけ彫り直しました。原図では1mmの間に2~3本の毛が彫られていますが、私には1本がやっと。”抜け毛”はなくなりましたが、ボサボサ髪になってしまいました。

きん魚づくし ぼんぼん(2021/7)

今回の作品は江戸末期の絵師、歌川国芳(寛政9年~文久元年:1798年~1861年)の「きん魚づくし」全9作の中から「ぼんぼん」を原画としました。天保13年(1842年)ごろの作で、中判錦絵というA4より少し小さいサイズのものです。

「ぼんぼん」とは盆の時期に江戸の女の子たちが手をつないで列になり、歌を唄いながら町中を歩いた遊びで、金魚が手にする団扇はすくい網になっています。また大きく口を開けているのはぼんぼん歌を唄っている様。浮草の団扇を手にした小さなカエルが姉さん金魚に手をつないでもらっています。

今回の制作は8色8版と版木の数が最も多くなりました。また、これまで細かい所は一部を省略して彫っていましたが、今回初めて殆ど省略することなく制作してみました。しかし、絵の具と糊の濃度調整や用紙(葉書サイズのケント紙)の湿らせ具合が悪く、摺りの段階で滲んでしまい、文字もはっきり読めなくなってしまいました。まだまだ実力不足です。

原画には、左の長辺部に「一勇斎国芳 戯画」(一勇斎は国芳の画号・斎号)と描かれていますが、私は彫りと摺りだけなので、「彫 摺 信行」とくずし字で入れてみました。

八重桜と桜色の霞たなびく筑波山 (2021/4)

今回、お手本としたのは、初代歌川広重の「名所江戸百景」の中から「隅田川水神の森 真崎(すいじんのもり まっさき)です。

名所江戸百景は初代広重が安政3(1856)年から同5(1858)年にかけて制作したもので、全部で119枚あります。

今回は八重桜と霞たなびく筑波山を切り取って制作しました。花びらと葉脈の線は幅0.5ミリ程で彫ったのですが、絵の具で木が膨張するため少し線が太くなってしまいました。また摺りでは初めて「ぼかし」に挑戦しました。ぼかしは濡れた布で版木を湿らせ、その後絵の具をギリギリまで摺りこんでゆく「拭きぼかし」という技法です。9色5版でしたが、彫り・摺りともこれまでになく難しく、何十枚か摺っても良品は数枚というレベルです。

2021年の年賀状(2021/1)

2021年の年賀状です。

今回の作品のお手本としたのは江戸後期に活躍した鳥居清長の「横笛を吹く金太郎」です。

清長のこの作品は文化2年(1805年)頃のものと推定されていますが、清長は金太郎の絵をよく描いており、また金太郎図は正月に出版されることが多かったとされています。原図は多色刷りで、金太郎の肌は赤色、砂の色は薄い黄色です。しかし力強さを出すため墨の濃淡で表現しました。

この金太郎図は大判錦絵で、これを葉書サイズに縮小して制作したため、細かい部分はかなり省略して彫っています。

1mm幅の線を彫り進む内に版木が折れて線が途中で途切れていますし、黒色の濃淡を4枚の版木で刷り分けているのですが、汚れも目立ちます。今年はさらに精進して、彫り・刷りの技量を上げ、もっと難しい作品や美しい作品に挑戦してみようと考えています。